永いお別れ

2015年8月31日 (月)

夏の書斎、今年も扇風機だけで何とか…

夏がゆっくりと去ろうとしています。もう少し駆け足でもいいんだけど、夜とかむしむししてるしなぁ。何だか3カ月更新ペースの呪縛から逃げられてないのですが、皆様いかがお過ごしでしょうか? 貴女のはせひろいちです。「さよならウィキペディア」の3都市公演ご来場の皆様。ありがとうございました。差し入れで頂いた食料やアルコールで何とか夏を乗り切りました。いやいや結構マジで。さて、まずは……先日、劇団名芸の栗木さんが他界され、お通夜に行ってきました。栗木さんには、皆が知っている以上に、仕事上、いろいろお世話になりました。貴重な本を「もう僕がもっているよりは」とごっそり郵送していただいたり、行政の機関誌の取材でご自宅を訪問した際には「くたばる前に、そろそろかと思って話を聞きにきましたね」と笑顔で迎えていただくなど、今にして思えば死期を…なんてエピソードばかりですが、どうか安らかに。劇団のこと、プロレタリア演劇のこと、ご家族のこと、いろいろ聞けて、文章にできて幸せでした。最後まで「劇団らしい劇団」を貫かれ、お通夜も実に質素でしめやかで、「栗木さんらしい」お別れでした。ご冥福をお祈りいたします。みんな逝っちゃうなぁ。まあ、人類の歴史の中、今まで死ななかった人は誰もいないのだから、それ自体をどうこう言っても詮無いことだけど、人の死を、安易なドラマの道具立てに使うことはやめようよ、なんて思いつつ、今書いてる3人芝居がお通夜のギャグシーンから始まるものだからどうにも筆の進みまで湿りっぱなしでいけません。いやいや言い訳にするのもいけません。久々のこの書き込み、明るいネタのストックは山積みなんだけど、さすがに次回に回すとして、今日はこれから、あっという間に1年経ってしまった深津さんのお別れ会に行ってきます。ではまた。いやいやホントに近々に…。

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2014年6月 5日 (木)

階段三段落ち…菊さんに支えられた気がします。

訃報とまぜこぜの文で恐縮です。まずはとっくに賞味期限が切れてしまった「ブログのための走り書き」に残された文章の掲載から。10日ほど前のです。通信するための携帯グッズを持っていない僕は、時々こうして文章のストックをしてるわけですね。別に今更って感じだけど、僕の右足がまだ健康で、大ファンだった竹内菊さんもご存命だった時の文章です。妙に明るいのが癪に障るが、まあ、これも記録として…。こんな感じです。『明日から小屋入りです。そう、七ツ寺共同スタジオ。そう、「ディラックの花嫁」の幕開きです。明日から小屋入りってコトは、今夜がトラックの荷積みってコトでして…いつもとは舞台美術の「素材」が違うっつうんだよなぁ…今回は特に少しも濡らしたくないわけで…何でこんなに雨振るかなぁ…こういう時に限ってさぁ。誰が雨男だ雨女だとワイワイ騒ぐほど若くもない集団は、黙々と手運びをし、すっかりびしょぬれ。「♪ハードレインで恋もずぶ濡れ~」と歌ったのは北野武だったっけか? 今回の売りは、なんと言っても完全ダブルヴァージョンですね。つまりウチの荘加真美と栗木己義がいろいろあってダブルキャストなんですが、性別も違うし、ともにベテランだし、適当に不条理なユニセックスな感じってのにも僕が飽きちゃって、だったらいっそってわけで「違う展開、違う登場人物で出てもらおうじゃないの」と、宣言してしまったから仕方ない。誰も止めなかったしな…。登場するシーンも微妙に違うから、もしかすると台本の解釈すら変わってくるかも、ってわけです。まあ、台本も苦労しましたが、何より大変なのは、ヴァ-ジョンチェンジの部分に関わってる数名の役者ですね。似たような会話の運びなのに、少しだけニュアンスが違ったり、同じ台詞で言う相手が違ったり…とても混乱してます。ははは。もちろんどちらかのヴァージョンだけでも十分楽しんでいただけます。ががが、両方見ると楽しさは2・5倍は保証しましょう。ん? 結構微妙? ではでは木曜から日曜までの8ステージ(相変わらずアバウトですいません)大須は七ツ寺共同スタジオでお待ちしておりまする。』だってさ。んで、菊さんの訃報を知ったのが30日の朝、僕が客席の段から3段落ちて救急病院に行ったのがその日の夜。思えばご家族の間で静かに通夜をされてた頃。僕のほうは、最後に倒れこんだのがコンクリートの床だったから、頭とか、もっと打ち所が悪くても不思議じゃないのに、もしかしたら菊さんが守ってくれたのかも知れません。2009年の個人的観劇回顧のベスト2にさせてもらったのが菊さんの「狐の嫁入り」でした。その際、中津川での懇親会で菊さんに懇意にしてもらった際に「ささやかなお土産に」ともらった「招き猫の壁掛け」ってのがあって、いつも劇団公演の際に受付に飾らせてもらっていたのが、今回に限って飾り忘れていて、それに気づき、慌てて受付に向かった、まさにその時に転落したわけです。足のほうは、救急のレントゲンでは「骨に異常なし」だったのに、公演空けて地元の病院に行ったら、ちゃんとヒビが入っていて、今、普通の人の10倍の遅さで歩行しながらなんとか生活いています。米寿を超えてなお斬新さを追求した菊さんの魂に、いつも憧れていました。どうかゆっくりお休みください。いろいろ後先になったけど、ご来場くださった方々、ありがとうございました。焼酎もお菓子もいっぱいいただきました。公演後、積極的に挨拶に迎えず失礼しました。アフタートークではまたまた諏訪さんにいろいろ助けていただきました。救急病院にいた時は「また諏訪さんとのトークに出られないか」と思いましたが(2年前も網膜剥離緊急手術で叶わなかった)、何とか出れて幸せでした。役者たちにも世話になったけど、まだまだ大阪も東京もあるからな。礼はまとめて後日に。何とか「僕以外は」無事に名古屋公演を終えることが出来ました。ではでは。きっと不自由な歩行生活のはけ口として、ココへの書き込みも増えるはずだから…。うーん、それにしても長くなっちまったぜ。

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2011年7月16日 (土)

昨日も君の手を、夢で見たよ、岡田君。

そうかぁ、ココも3ヶ月ぶりなのかぁ…もし懲りずにチェックをしてくれてるヒトがいたら本当にすいません。お久しぶりです。いろんな仕事に撲殺されて、全然ココに来れてませんでした。舞台美術とのコラボが大好評だった安吾の朗読劇も遠い昔で、新作「無重力 チルドレン」の名古屋も終り、CBCのラジオドラマ「還暦刑事」の5月分、7月分も執筆を終え(あ、7月分は毎週4話完結で放送中。聞き逃したヒトは31日14:00からの1時間一挙放送が最後のチャンスね)、もうすぐ「無重力…」の東京公演って感じです。そうそう51歳の誕生日も何事も無く過ぎ去って、体力、気力の少しずつの衰えを実感しながら、喫煙もすっかり戻り(いや、パイポは続けてて、気持ち的には禁煙を少し休んでいるつもりなんですけど…)、アルコールの量だけは衰えを知らない状態ですね。「無重力…」は、自分なりの震災テーマがあるんで、精神的にはどっと疲労してます。「還暦刑事」も随分筆が遅くて、多くの関係者に迷惑掛けましたが、平泉成さんと煙草吸いながら交わした僅かな会話に励まされて踏ん張ってみました。時々行ける愚息の少年野球の試合観戦と、やはり時々息子と交わせる「銀魂談義」なんかを楽しみに、何とか生活しております。それと……宮崎の同業者・岡田心平君が亡くなりました。急な報せを受けたのが葬儀の3日後で、知り合いに伝達するしか能が無かったお別れでした。まだ30代だよね、早すぎるっつうねん。彼と知り合ったのは日本劇作家協会が初めて全国規模のイベントをした北九州大会の宿泊所でした。有名な劇作家順にホテルが与えられ、あぶれた人間が集められた地元の有志の方のお宅での「合宿」でした。さっさと自分達の境遇と協会の事情を飲み込んだ同室の面々は、最初の夜から浴びるように飲んで、早速執行部への不満をぶちまける者、逆に闘志を燃やす者、別役さんと話せたと興奮する者、やたら自分の劇作魂を話す者、まさにごった煮、演劇論のるつぼ、って感じだったよね。岩手のくらもち、大阪の有行さん、長山現さんなんかも同室だった。今でも時々夢に見るんだ。青春のような合宿。僕にとって、あそこが劇作家協会の、いや、劇作家としての自分の全ての始まりだった気がするよ。そんな中で岡田君は常に物静かで、ヒトの話をじっくり聞いてる人だった。染色家でもある彼の手はいつも爪まで真っ黒で、恥じる事ない彼のプライドを物語っていた。彼とも「いつかまた一緒に仕事をしよう」と約束してた。宮崎の誇る劇作家「藤井貴里彦さん」と僕を出会わせてくれたのも実は岡田君で、その際も「また飲もう」と約してそれっきりだ。お互い賀状や、公演案内や、展覧会案内やでやり取りしていたのに、何で一度ぐらい電話して声を聞くことをしなかったんだろう? でもじゃあ、それでどうなったろう? もうこうして、いつまで残るか判らないような文章で、君をしのぶコトしか出きないのだね。ヒトとヒトの距離は、こんな具合に残酷で、そして同時に必然的なもんなんだね。さよならだけだね、やっぱ。人生にはさほど大きな意味は無く、ヒトとヒトの関係性においてのみ不思議な功績を残していく。それで良いよね、心平君。最期の時、苦しかったり痛かったりしたのかな? 願わくば、それがせめて、さほどでなかったり長くなかったりした事を……君ではない僕には、決してこれからも判らないコトだけど…。お疲れさん。そしていろいろありがとね。君の死は、きっとご家族を強くして、娘さん達も強くして、演劇人も奮起して、決して無駄にはならないからね。安心して休んでくださいね。遠い地球の一地点より。

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2011年2月 9日 (水)

いかに継ぐか、いかに取り残されるか。

こばやしひろし氏の死去を知ったのは、劇王最終巴戦の表彰式を一人抜けて、名駅でレッスンをしている最中だった。レッスンの合間をみて関係者への連絡をしたものの、翌日からは出張扱いで本番絡みの仕事ゆえ、通夜にも葬儀にも出られそうも無い。そんな焦燥と同時に「そういう風に出来ている」こばやしさんとの距離感に思いは迷走した。思えば僕が初めて芝居の道に踏み込んだ際、同じ予備校に通っていた女性を主役にスカウトしたのだが、それが実はこばやしさんの娘さんだった、ってエピソードから始まり、こばやしさん及び劇団はぐるまと、僕およびウチの劇団は、時に離れ時に近づきながら、「岐阜の…」ではじまる修飾語を互いに背負ってきた。そもそもウチのカミサンが芝居を始めたのも、こばやしさんの元だったし、彼女の退団後も会う度かわいがってもらっていた。郷土・岐阜への関わり方や、芝居の方法論の差もあって、中にはいまだに僕とこばやしさんを「犬猿」っぽく思っているヒトもあるだろうが、本人同士は決してそうでもなかった。かなり昔ではあるけれど、岐阜で国民文化祭が開かれるにあたり、劇団協議会が始まった頃は、何度もこばやしさんのお寺にお出迎えして、僕の軽自動車で東濃まで、往復5時間半の「2人きりのドライブ」を重ねたもんだ。サービス精神旺盛なこばやしさんは、その間ずーっと話をされていた。時には同じ話が繰り返されたが、何度も「僕が死んでも総合舞台は残るでね」「それが一番の僕の自慢やなぁ」と力強く話されていた様子が、いまだに忘れられない。ちなみに総合舞台とは、裏方さんの会社である。劇作家協会東海支部の立ち上げの際にもお世話になったし、ウチと燐光群とで共同公演した「神田川の妻」(作・坂手洋二/演出・ワシ)の名古屋公演を観に来てくださった時には、珍しく七ツ寺共同スタジオの楽屋での飲み会にも残って、学生運動や社会運動、差別社会や演劇の役割などなど、実に熱く長く語っていかれた。すっかり見れなくなっていた「戦うこばやしひろしの魂」におそらく身近で、最初で最後に触れた一夜だった。明後日の11日の祝日(前のブログで間違えて12日とお知らせしました。間違えです…こっそり修正済み…)には、岐阜市の戯曲塾の恒例の発表会があるのだが、今年も劇団はぐるまから役者さんの協力を得て、はじめて成立している。とてもアナタの功績を継いだり、真似たりは出来ないけど、アナタの築いたものは、例えばベテランの役者さんの呼吸やカラダに確かに残り、僕はその軌跡をたどりながら言葉を舞台に乗っけていく。それしかない。「失くして初めて気づく大きさ」などではない。もともと大きなヒトだったから、どれだけ覚悟していても「取り残された感慨」は強いのだ。こばやしひろしさん。ほんとにお疲れ様でした。あえて最後まで「先生」とは呼ばずにのお別れです。どうぞ安らかに、ゆっくり休んで下さいませ。

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